漂流する心

アートに関することを気まぐれに書いています。

タグ:その他芸術、アート

トーハクに行ってきた。
狩野永徳の檜図屏風がお目当てである。

修復後初のお披露目だそうだ。
近くで見ると、その筆さばきの豪快さにホレボレする。
離れて見れば、そのオーラに圧倒される。

当時の絵師たちは、注文主たる権力者の好みに沿わないと命の危険があった。
加えて、大量の注文、弟子達やら家門やらへの責任など、永徳さんも大変気苦労が多かったことだろう。

ライバル長谷川等伯が期待をかけていた跡取り息子を亡くしてしまったのも悲劇だが、
永徳の過労死も悲劇だ。

今日では注文主の意向に沿った絵は堕落と考える人もいるかもしれないが、
注文主の審美眼や、画家の技量によって、優れた作品は幾らでも生まれてくると思う。

結局、どれだけ仕事に真剣に取り組むかが、大事なのだ。

売れっ子作家を「売れ線」といって揶揄する人々がいる。
創作者Kはそれに対して「売れ線」の何がいけないのかと思うのであった。

そもそも、巨匠と呼ばれる人のほとんどは、まさに「売れ線」を徹底的に追求しているではないか。
売れ続ける仕事をすることがいかに大変か。
売れ線=迎合とは違うのだ。
受け手にどのように自分のメッセージを伝えるか、
そのためには受け手の側の立場にたってみることも大切なのだ。
いくらいい仕事をしても、受け手が興味を示さなければ、肝心のメッセージも伝わることはない。

優れた作家と凡庸な作家との違いのひとつが、
自らの「独りよがり」に気づくかどうかであると創作者Kは思っている。

ターゲットとするユーザーが美の素人集団であるか、審美眼のある集団か、権力集団か、未来の人々か・・・
それにより、「売れ線」の性格も異なってくるだろう。

どの集団をターゲットとするか、それは、その作家の力量に比例すると創作者Kは予想している。

表現とは何か・・・・
それは誰のためにあるのか・・・

独りよがりにならず、
かといって、大衆迎合にならず、
人を楽しませ、夢を紡ぎ、そして自分自身が喜びを感じる行為

いつのころか、アートとエンターティメントは分けられて捉えられるようになった。
果たしてそうだろうか?

たとえ「暗い」作品でも、共感を感じ希望をその中に見つける人々もいる。
それとて、立派なアート&エンターティメントだ。

優れた作家とは、同時代の真実を追求し、そして未来の人々にメッセージを送ることができる。

思うに、現代美術は、知的エンターティメント。
驚き、面白がり、呆れ、頭を使い・・・そして楽しむ・・・

創作者Kはまどろみながら、そのように思うのであった。

創作者Kは、長い眠りからようやく目を覚ました。
しかし、直ぐに思うのであった。

最近の現代美術は面白くない・・
といっても、それは、最近になってのことではなく、
だいぶ前からだから、正確には今もって面白くないといった方がいいのだろう。

と。


遠いどこかで、いや、直ぐそばで、何かの兆しがあるのかもしれない。
しかし、
それを察知する能力に欠けているのか?
それとも、
電波が弱すぎるのか、
創作者Kのアンテナには引っかからない。


創作者Kは自らも電波発信のために充電中だが、
旧式のせいなのか、まだまだ充電時間を必要としているようだ。

走行して入間に創作者Kは再び、深い眠りに入った。

2010年になった。

昨年は阿修羅が大変な人気だったようだけれど、今年はどのような展覧会が話題になるかな。

古今東西の名品鑑賞はとても勉強になる。

金融危機で美術界も何かと大変だけど、知恵を絞って乗り切るということになるのかどうか・・・。
創造活動にはコストがかかるもの。
これを理解せず、安ければよいというのは間違い。
低コストの場合は低コストなりのアイディアを絞った作品を作ればよいと思う。

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